ブログ再開したものの、もう移住してから3年弱になろうとしてて、
移住、独立までと言いつつもいろんなことがありすぎてどこからどこまで書こうか、、、って悩んでまた手が止まりそうにw
めんどくさがりのくせに中途半端に完璧主義なところがある人間あるあるなんだろうな。。。
せっかく再開してるし、どうせならだれかの役に立てること書きたいので、それを意識して書こうかなと。
元々在籍した会社は在宅勤務なんてとても考えられない、認められないような会社だった。コロナがじわじわと日本に入ってきてることが報道されて、志村けんさんの訃報があった頃くらいかな。システム部の方との面談があって、自宅がリモートワークが可能な環境かどうかのヒアリングがあった。
それでもまさかな、、、とは思ってたけど、当時携わってたプロジェクトが某超大手ゲーム会社さん関連の有名タイトルで、コロナ禍初期でいち早くクライアント様がリモートワークに移行してたことで、私たちも2020年の4月からリモートワークに移行となった。
なんか最初の頃は家で仕事しててもちゃんと切り替えないと、、、と思って、朝コーヒー飲んでちゃんと着替えてたなぁw
最初だけw
あと、家だといつまでも仕事ができてしまうので、CGデザイナーって仕事柄とか、自分が探求好きで社内での情報共有やライバル意識?的なものがなくなる焦りもあったのだと思うけど、会社にいるときと違って作業に詰まると会社にいる時よりも調べ事したり、納得いくまで検証しながら作業したりしてて、終わり時がわからず、ずっと仕事してた。
専用のVPNに接続しての作業で、やり取りはチャットを使ってたので、PCの動きがないと離席してるのはわかるし、逆に接続してるのも見えてるので、VPNに入らずに夜中に作業することもあった。
毎週金曜日は音楽仲間とzoomでリモート飲みしてたなぁ、、これも終わり時がわからず、7時間くらいやってたりw
そんなこんなであっという間にリモートワーク生活も2年経ち、更にその数か月後の2022年の夏に、母親が異様なお腹の痛みで近所のクリニックに行ったところ、早急に検査が必要とのことで淡路医療センターに紹介状を書いてもらい、検査したら、手術が必要ってことになってて
最初母親から電話で聞いたときは、大腸に腫瘍はあるけどガンかどうかはわからないし、他の臓器は問題ないと言われたから大丈夫
みたいな。
なんか腑に落ちなかったけど、やっぱりそのあと伯母(母の妹)と電話したときに、伯母が泣きながらがっつり大腸ガンだし、なんなら転移もしてるし、まぁ余命いくばくもないかもみたいなことを言っていて
実は母方の祖母もお腹に異常を感じてたのに病院が嫌いだからと放置してて、発見時には大腸がんからすでに肺に転移していた状況で、余命三ヶ月くらいかもとのことだった。その後農作業しながら3年は生存してたけど。
祖母のときと同じ。しかも母のガンは、放置しすぎてて、大元のガンが背中の筋肉に癒着していて手術での切除は不可能、手術は人工肛門にする手術で、余命は抗がん剤次第
という、まぁもうその時点でもう、手の施しようがないという状態だった。
10月に手術入院、入院期間は未定とのことで、ひとまず手術の前後で休みを取って、淡路に帰省。
うちの母親は1992年からお好み焼き屋をやってて、私はそれまで帰省時はたまに洗い物手伝うくらい、あとはお店の常連に飲めって言われて一緒に飲んだり、スナックに歌いにつれて行ってくれたら一緒に行くくらいで。
店によく来るお客さんでも子供の頃から知ってる人以外は名前と顔が一致してない人が殆どだし、あまり興味もなかった。
それが母親から、入院してる間、常連さんにお酒出すだけでいいから店空けてほしいと頼まれて、17時に店を開けたら毎日お客さんが来てくれて、最初はビールサーバーの替え方もわからんし、お客さんの好みも知らんし、でも毎日来てくれてるお客さんにちょっとでも何か出せたらと思って、無料でお通しを出してみたりもしてて、朝~昼は父親の食事の世話、洗濯、住居スペースと店の掃除をして、買い物して、、と、大変ではあったけど楽しかったんよね。
母親が入院してる間、娘が店を開けるからと、そのときはまだあまり面識もないのに毎日来てくれて、いろいろ教えてくれて、
母親が30数年やってきて、決してきれいでもちゃんとした店でもないし、でもこれだけ母親とこの店が好きで来てるお客さんがついてる事実を目の当たりにして、
母親にできる限り店を続けさせてあげたい
って思った。
そのとき、主治医の先生からは、「退院しても、もうお母さんが店を続けるのは難しいで」とは言われてた。
理由として、抗がん剤で味覚の感覚が失われること、人工肛門をつけるため、重いものを持ったらダメなこと、お店をやってお客さんがいると、どうしても無理をしてしまうこと
他にもあったかもしれないけど、こんなことを言われた。
重いものを持ったらダメとはいえ、父親も脳梗塞で右半身が不自由で、それで転んで骨折したこともあったし、その両親ふたりの生活で、重いものを持ったらアカンってのはちょっと無理があるし、医療センターまで車で40分の距離で、今後抗がん剤を打ちながら母親が自分で運転して通うのも厳しい。
そうゆう現実と、休暇を終えて東京に戻ったあと、母親が退院するまでその脳梗塞で右半身が不自由な父親が一人になるということ。
いくら伯母が様子を見に来てくれるとはいえ、店を閉めてたらお客さんも来ないし、伯母も仕事があるので、もし誰も見てないところで転んでケガをしてしまったら、、、
そうゆうことで本当に急ではあったけど、その最初の10月の帰省の9日間でもうその年の年末に東京を引き払って帰ってくるって決めた。
決めたものの、そもそも両親は母親が店として借りてる場所の空きスペースみたいなところで生活してたので、淡路でリモートワークを続けるのであれば、家を買うか、若しくは借りる必要があること、年末までに東京から淡路への年末の引っ越し準備ができそうにないこと、いざ今のリモートワークのプロジェクトが終わったらどうなるんだろうとか、せっかく東京で義太夫を好きなお師匠さん方に稽古してもらって、プロを目指してたのにとか、淡路に帰ってきたらバンドもできないし、義太夫や文楽やライブも見に行けなくなるし、、、って不安と、なんだかんだ18歳から27年近く、社会人になってからずっと積み重ねてきた東京での生活への愛着と
淡路で生まれ育ったとはいえ、地元に帰省してきて周りの大人に声をかけてもらえるのは、あくまで店をやってる親の「娘」としてであって、私個人はこの土地でなーんにも積み重ねていない。そこから一から積み重ねていくのはきっとわくわくすることもあるだろうけど、病気の両親を抱えて家探しからやっていく、仕事も最悪CGデザイナーとしてのスキルを捨てざるを得なくなるかもしれないし、浄瑠璃の稽古もできなくなる。
親の犠牲、、、とは言いたくないけど、、、
そうゆう側面は心の奥では感じてしまってたし、これはそのあと、実際淡路に移住して両親と同居、親の店を手伝ってるとき、自分がいろんなものを負担せざるを得ない状況だった時にどうしても、どうしても身内との衝突や好きなことができないことへの焦りでしんどかったことがあった。
いろんな思いがあって、東京を引き払うと決めたものの、後ろ髪を引かれるような、胸が苦しい気持ちもずっとあった。
でもどこかで、あ。そうゆう流れなんだなぁって思うこともあったりして。
というのは、ここからちょっと胡散臭い話になるかもしれないけどw
私は子供のころから自分の地元や本家が怖くて、変なもの、変な気配を感じてたりしてて、
そのことについても、淡路に帰ってくると決断した翌月に、不思議な縁というか、その根本原因を知ったり解決できるような出会いと出来事があって、
あー。東京でいろんな経験をして、ここに帰ってくるという流れ?運命?だったんだろうなって受け入れられたんよね。
まぁ、ぶっちゃけその〇能者の方が、私が見ていたものを調べてくださるために、お弟子さんらと淡路に来られて、一緒に淡路のとある神社に行ったときに、まぁやっぱり不思議なことが目の前で起こって、淡路島のここの神様から呼ばれてますよ。大丈夫です
って言われたんよね。
わけわからんまま言われても、えー?ホンマ?ってなってたけど、
自分が子供の頃見えていたもの、感じていたものと、その先生とお弟子さんが見たものと史実を照らし合わせたときに、うわまじで!?みたいな符号があったりして。
だからといって胸の不安や、東京という、自分が何も持ってない18歳の時、住み込みで新聞配達をしていたころから積み上げてきたものが詰まった大きなものを引き払うことに対する喪失感は消えたわけではないんだけど、この出来事は本当に自分にとって大きな支えになった。
だからというわけではないけど、
このタイミングでこうゆうご縁があるってのは、もうそうゆうことなのかなと
そうゆう流れがあったから猶更、母親に店を続けさせてあげたいとか、CGの仕事を続けられるか、、、
というのも、自然と、店や浄瑠璃、自分の仕事のCGを通して少子化が進んで、寂しくなっていく町を盛り上げることに貢献したいし、もしかしたら自分にはできるのかもしれないという方向に展開していったのだと思う。
とりあえず今実際、地元でCGデザイナーとして独立したし、開業するにあたって、支援金や融資を申しこむための事業計画書に、そうゆう意志を書いてしまってるし( ´艸`)
現状はまだひとりで案件をこなすだけでいっぱいいっぱいだけど。。。
移住を決心したあたりの心情や出来事はこんな感じでした。
また続きを書きますね~。なんか移住しての振り返りができて自分でも楽しい^^