☆友路師匠の思い出と淡路に生まれて培ってきたもの☆

こんばんは。なぎです。

ほんまに週末はあっという間に過ぎていきますなぁ

今日は淡路の人形座ではこの公演が行われてたようです


観に行きたかったなぁ(´・ω・`)

ホンマに、どこでもドアがあればええのになぁって心から思った。お金に余裕があったら行ってたかもw

義太夫教室で、越京師匠の稽古で今これやってますの

せやから余計観たかった~~”(/へ\*)”))

来年の3月10日(土)にある義太夫教室の卒業発表会でこれやることになってるので、この演目も勉強して自分なりに解説書こうと思います^^

それから、12月16日の女流義太夫演奏会でも

ホンマ人形浄瑠璃の演目って段が多いなぁ。。

 

Star Warsみたいなもんだと思うことにしよう( ̄▽ ̄)

 

鶴澤友路師匠は去年103歳で亡くなられた義太夫三味線の人間国宝の方です。
淡路人形座HP鶴澤友路師匠についてのページ

友路師匠は淡路島の福良(ふくら)という町の生まれです。

なぎも福良^^

なぎも南淡中学校郷土芸能部で太夫をやってたときに教わってました。

友路師匠がいらっしゃるときは、順番で当番の部員が来客昇降口で師匠がタクシーで到着するのをお迎えして、師匠の三味線を持って部室まで案内してました。

なぎが中学生の時で友路師匠はすでに80歳近かったんだな。。。

よく稽古の合間に肩揉んでましたがw
全体重乗っけるくらいの勢いでやらんと効いてないようでしたw

 

どんな思い出orz

 

もう、ホンマ子供だったし

アホだったので(今もやけど)

当時は三味線の掛け声がなんか面白くて

師匠のモノマネしたりとか。。。スイマセンorz

でも今思うとそんなアホな中学生の自分にもホンマに熱心に指導してくださってたなと思います。
お手本も、細かい節とか覚えてできるようになるまで何度も師匠自ら語って教えてくださいました。

 

今思うとなんちゅう恵まれた環境で稽古させてもらってたんだろうって思うけど、当時はそんなありがたさもよく分かってなかったような気がします。

稽古だけでなく、公演や発表会でも当時は三味線は友路師匠が弾いてくださってました。

なので

最初から口上も

『三味線 鶴澤友路』

で練習してました。

ほんとうに、貴重な経験をさせてもらえてたんやなと思います

自分はずっと福良で生まれ育って、だんじり唄も好きだったし、お父さんが観光業をやってたりで、子供のころから人形浄瑠璃は身近にあったけど

※だんじり唄の記事→☆淡路島☆淡路のゴスペル!?だんじり唄

福良を出たことなかったころは、身近すぎて何もわかってなかったです。

小さい町なのでフツーに町歩いてたら

友路師匠見かけることもあったし

当たり前やけど
福良弁で喋ってはったし( ̄▽ ̄)

中学卒業して、淡路島の中でも南あわじ地方の子が少数派な洲本高校に進学して

そこで淡路島の中だけでもこんだけだんじり唄や人形浄瑠璃の認識度が違うんやなって実感しました。

淡路島って、島と言えど地域によって色がぜんっぜん違うんです。
淡路島内で言葉が通じへんとかあったしw

実際、なぎは洲本高校行って福良弁ちょっと遠慮したwww

今はネットやSNSの普及で情報やコミュニケーションの障壁が薄くなってるし、人対人なので、昔に比べたら地域の偏見や差や心理的な距離感ってなくなってきてるとは思いますが

ネットがなかった時代って、淡路島の中でも地域の差ってけっこう大きかったし、よくも悪くも閉鎖的だったように思います。

まだ明石海峡大橋も開通してなかったし、

中学生で電車乗ったことないとか普通だったし。

子供の頃ってどの地域でもそうだろうけど、その時の自分の行動範囲や見えてる世界がすべてなので、自分の世界以外から人形浄瑠璃とか淡路島について考えたりするなんてことはまずなかったですw

福良にいたときは

なんでよりによってこんな何もない島に。。

どんだけの確立でこんな島に。。。

せめて本州に生まれたかった。。

とか思ってましたもんw

特になぎは歌が好きだったし、芝居や踊りも好きだったので、そうゆうレッスンを受けたいって気持ちがあって、せめて神戸だったらな。。って気持ちもあったので余計に思ってました。

なのでその時にできる表現や芸能としてだんじり唄だったり、太夫だったりをやりたかったし、あとは近所のカラオケボックスを毎日掃除したら練習させてくれるということで、学校帰りに寄って掃除して、そこの人に演歌を教わって、カラオケ大会とか出させてもらってました。

当時は坂本冬美の『火の国の女』と『祝い酒』ばっかエンドレスで歌ってましたw

高校行ったら、中学校のときまで当たり前に太夫語ったりして表現するってことができてたのが、とりあえず今までと違うとこに行きたいとあまり深く考えずに進学校に行ってもたので、とにかく最初勉強ついていくのが大変だったwww

このころはもうアタマの中は浜田麻里でいっぱいだったけど、

やっぱり歌うとなると演歌でしたww

これは高2の時

後ろの垂れ幕ウケるwwwwww

なんやねんwww

日本平和の確立はカラオケからてww

こんときは坂本冬美の『恋は火の舞剣の舞』で最優秀歌唱賞
( ̄▽ ̄)vわっほい

あちこち呼ばれて歌ってました。ホテルのイベントとか祭りとか。

賞貰えると、ホテルの食事券とかもらえて友達とコース料理食べにいった♪

 

当時は演歌とか、だんじり唄で周りの人に喜んでもらえてるっていう実感があって

それが嬉しかったです。

南淡中学校では定期的に老人ホームの慰問公演をやってて

それをお年寄りがとても楽しみにしてくださってたり、

涙を流してる人もいてました。

当時のなぎ自身はその価値をあんまりわかってなかったけどw

ただ、

なんだかんだで一番喜ばせたかったのは

おばあちゃんなんですね^^

なぎが郷土芸能部入って太夫やってることも喜んでくれて

発表会や公演は観にきてくれてたし、それを自慢してくれるのが嬉しかったです。

もし

淡路島に当時

沖縄アクターズスクールみたいなのがあったとしたら

もしかしたら

だんじり唄や演歌なんかやってなかったかもなあ。。って思うこともあるけど

 

たぶん

 

 

だんじり唄とか太夫とか演歌

 

やっぱり選んでたかもな^^

 

とも思います。

 

地元の人にとってだんじり唄や義太夫節って身近な芸能で表現することを心から楽しんでて、全身全霊で語って表現するんです。それはもう生まれたときから培われてきたもので

自分は東京出てきてから歌うことが楽しくなくなってたり、なんで東京におるんやろうって思うこともあったけど

また義太夫をやる機会があったことで自分がやってきたことに向き合えたり

なんで歌うことが好きやったんかってことを思い出させてくれたように思います。

 

痙攣性発声障害というわけわからんものにハマってしまったのも、何かしら自分の心とアタマがズレてて知らん間に心理的なブロックがかかったのがキッカケの1つなのかもなと漠然と感じてます。

 

発声をまた勉強してだいぶ克服?したけど、このあたりもこれから向き合っていこうかと。最近、なんとなく自分の本心のまま変人らしく真っ裸で生きていけば治るんちゃうやろかと思いはじめてますw

 

世界中にいろんな音楽があって、ブルースとかR&Bとかゴスペルとか。。も、そうゆう風にその土地や文化に根付いて発展してきたからこそ独特でめちゃくちゃカッコよかったりして、だんじり唄や義太夫節も同じやなと思います。時代背景や当時の価値観、宗教感、美的感覚の宝庫です。すごいカッコいいんです。

 

ほいで、やっぱり自分は淡路の人形浄瑠璃が好き❤

 

たくさんの人に知ってほしいなぁと思うし、東京でも公演あるけど、やっぱり淡路でも観て欲しいなぁと思う

 

太夫とか三味線とか習ったからってどうなりたいとかってのはよくわからんのやけどw

今はとにかく練習することも勉強していろんなこと知るのも、観たり聴いたりすることも勉強すればするほど気づくことが多いし、楽しいです^^

 

今とは全然違う昔の価値観、風習や文化がよくわかるので、歴史好きな人にもぜひ知ってほしいなぁとか

 

やることで自分が培ってきたことと向き合えたり、今になって、知れば知るほど面白いなとか、素晴らしいなとか思うことがたくさんあって、それを自分なりに伝えたり表現できたらいいな。。。

 

うひ(≧ω≦)♪

 

てなわけで

 

これからもなぎ目線で人形浄瑠璃や義太夫勉強して感じたこととか、魅力とか、いっぱい書いていきます~

 

練習もがんばろ☆

ぽちおなしゃす
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