こんばんは。なぎです。
義太夫教室行き初めてもう半年。
早っっ( ゚Д゚)
5月の末ごろから行き始めたんやけど
中学時代の南淡中学校の郷土芸能部の
先生から声をかけてもらって、
体験で行ってみたいなって思ったのが
その直前で5月半ばくらいだっけ
それまでまた太夫とか
まさか三味線を始めるとは
夢にも思わなかったww
小学生からだんじり唄やって
中学校で郷土芸能部で太夫やって
でもそのあとは、人形浄瑠璃を続けられる
高校へは進まず、
ちょっと離れた高校に進学して
演劇部に入ってた。
やっぱり何かしら
そうゆうことがやりたかったんだろうなって
思うけど
当時は人形浄瑠璃も太夫も続ける気とか
全然なかった。時々自分が語ってた役を
語りたくなって、演劇部の部室でやったりしたけど^^
特に、南中でやってた
絵本太功記 十段目 尼崎の段
で光秀をやってて、
主君の信長を殺して、さらに自分の母親まで
手違いとはいえ手にかけてしまったことを
妻に咎められたあと
光秀がいろいろ言った後に
『女童の知ることならず すさりおろう』
と光秀は
一心変ぜぬ勇気の顔色
ってとこがあって、
ここ語るのめっちゃ好きだった
すさりおろう~~手前からyoutube
すさりおろうって( ̄▽ ̄)
なんか気分ええやんw
これ、自分が中学校の時に使ってた床本。
お宝w
よく残ってたなって思う
一年生で入部してすぐに自分らで床本手書きで
書いて、それを3年間使ったやつ
12歳のときのなぎの字^^
人形練習する部屋の隣の教室で、マッキーで
書いたの覚えてる
先生に読み方教えてもらいながら
読み仮名振った。
南中卒業後も、上京して帰省した時とかも、
何度か人形座に遊びに行ったり、
後輩の公演を観に行ったりすることはあったけど
またやるって考えはなかった。
浜田麻里さんみたいに
なりたい♪
って思ってたし
歌とダンス一色だったのでw
ただ、上京して歌を歌いたかったのに
痙攣性発声障害ってのになって声がうまくでなくなって
ずっと発声のことばっかり考えて、
ずっと表現どころじゃなかった。
あーーって普通に声出すのもしんどい時期あって
でも歌いたい
声ってどうやって出してたんだっけ。。。
って思ったときに、思い出したのが
これだった
この時あるオーディションに応募しようとしてて
でももう自分でも何を歌いたいかわかんなくて
普通に歌った音源と
光秀語ってる音源を送ったw
その時に応募書類に床本入れたほうがいいかもって
思って、今ではネットで検索したら床本出てくるけど、
17年くらい前でまだネットも普及してなくて、
もうひとりの顧問だった黒田先生に連絡したらなぎの
床本が部室にあったのを見つけてくれて送ってくれたので、
それを、また応募書類用に書き起こして同封して
応募した
↓その時書いたやつ
したら、一次審査合格してて
面接と二次審査行ったら、
面白いって言われて
面接中ずっと送った太十の音源流されて
やりづらかったwwwww
でも
結局自分でも何やりたいんだかよくわかんなくて
オーディションとかうけなくなった
中学生のときは、
それなりに一生懸命ではあったのかな
ひとりで没頭して集中することは
好きだったけど、
元々いい加減なうえに、
何より団体の中で行動すると逃げたくなるし
空気読め感強制されるといらんことするしw
学校も部活も気分で
結構休んだりするとこあったり
中身まるで子供だったし
嫌なことあるとすぐ逃げる
いい加減だったなぁ。。。ってホント思うww
・・・あ。今でもやけど( ̄▽ ̄)
歌うにしても
自分が歌うことの本質って
こうゆうところだったのかなって
思ったりする。
義太夫教室行き初めて、いろんな勉強して
改めて難しいなと思うけど、その分昔は
知らなかった奥の深さや面白さも知れたり
そうゆうことを思い出したり、
知ったりするための
縁があったのかな^^
てか
9月から三味線の稽古始まってから
三味線にハマってもてw
ずっと弾いてたら
爪削れたとこから肉に当たって
弾くと痛い。。
こうゆうときどうしたらええんやろ。
押さえ方悪いんかな。
↑きっとこれw
弾いてたらそのうち
痛くなくなるのかな。。。
家帰ってくると疲れて何もしたくないな
って感じても
とりあえず三味線出して弾いてたらノッてくるというかw
しばらく弾いてたら
あ。もうそろそろお風呂洗おうかなとか
お弁当仕込みしようかなとか
ブログ書こう~とか
教室の音源の整理して復習しないと
ってなる
三味線がなぎのスイッチ^^
教室は3月まで。そのあとも太夫や三味線の
稽古続けるとなるといろいろ考えないとな。。。
(´・ω・`)